昭和46年04月03日 朝の御理解
御神訓 一、「心で憎んで口で愛すなよ。」
一、「信心する人は常に守りを心にかけておれよ。」
例えば信心させて頂く者は、こういう事であってはならない、ということを例えば「心で憎んで口で愛すなよ」と教えておられる。その事その御教えだけでもそんな事であってはならないと。心に掛け続けさせて頂くならばそれが信心のここでは、「信心する人は、常に守りを心にかけておれよ」という事になると思いますね。もう他の事はいいこれだけで良いです。心で憎んで口で愛すなよと。その事だけでもです信心させて頂く者はこうでなければならないという事をです。
心に掛け続けさせて頂けばね。信心したら常に守りを心にかけておれよと仰る事になると思います。それが守りですそれで神様のその人の心の中に、まぁいわば宿り続けて下さると思うです。その事だけでですね心の中に何時も何か有難いものを頂いていけれると。信心をさせて頂いておるその信心の、例えば道に草を生やす様な事をすなと仰るが、こう言う事を心の中に頂き続けるなら、もう草を生やす事はないと思うですね。
信心てだからそうあれもこれも詳しくなるという様な事じゃない事が分かりますよね。心に守りを掛け続けること。だからこらまぁ自分の性に合うた、自分の好きなと言うても良いでしょう。御教えが、自分の心の中に、頂き続けられるという。それはもうあなたの心に、守りをかけておるのも同じこと。それでそういう事が段々本当に深められていくならば、信心は深まって行く。
心で憎んで口で愛すなよ。実際難しい事です。いわゆる口と心が、反対の場合があります。自分ではっとするほど、憎むとまでも行かなくてもね、まぁあんな奴とこう思いながら、口ではそれと反対の事を言っておる様な事がありますよね。その事だけでも自分の心の中に、頂き続けるという事。いわゆる心の使い方が本当に神様の心に、何時も有難い意味に於いて響いておる。自分の心の使い方が何時も神様が喜んで下さるような事に使い続けられておる。
そこにです信心のある者とない者の、それこそ大変な違いが、いやもう天地ほどの違いがです、出来て来るんですよ。私は昨日高橋さんのところの、毎年の謝恩祭でございましたから、私と文雄先生と二人でお祭りを奉仕させて貰いましたが、あちらでお祭りの後で、しばらくお話を聞いて頂いたことでございますけれどね。信心というものをとても難しいと、とても私達では出来ないというけれどもね。
実を言うたら信心をさせて頂いて、まぁ今日の御理解で言うなら、心に守りを掛け続けさせて頂くという事はね、この様に有難くて楽な事はないのですよという意味の事を、皆さんに聞いて貰った。信心する者は変人になれ変人とは、すぐいことぞという様な、御理解を元にして頂いた。信心する者は、変人にならねばならん。変人というのは、いわゆるすぐいことだと。いわゆる真っ直ぐい生き方だと。
ですから、ちょっと間違うと、自分がもう歩きにくうなって来る。ところが信心の無い間は、曲がっておろうが、歪んでおろうがです、平気である。そしていつの間にか、曲がりに曲がり、歪みに歪んで、最後のところは、信心のある者とない者の違いが、天地ほどに違ってくる。いうならば、地獄と極楽ほどに違ってくる。大変な事なんですよね。しかも信心させて頂いて、いわゆる心に守りを掛け続けるという生き方。
私は、昨日、あちらへ着かせて頂きましてから、お祭りを奉仕を終わらせて頂くまでの、まぁ高橋さんのお宅での、雰囲気というか、私が、感じとらせて頂いたことを聞いて頂いた。まぁお宅祭りだと言うので、それは、前々から、高橋さんの心の中に、掛け続けられて、何かと、心配りがしてある。それは勿論でしょう、その心配りがね、まぁ実際、あちらに着いた途端に感じるのです。あれだけのお店をなさっておられるのに、今日は、宅祭りだからと言うて、お店を閉めておられます。
それでいて職人さん達が、みんな休んでおられる様に、各地所長さん達までが、そのお祭りの事にもう一生懸命、奉仕をなさっておられます。もうそれこそあちらへ入らせて頂いた途端にですね、良いお祭りが出来るなと思うのです。もうそれはお絞り一つの上にも、お茶一服の上にも本当に心がそれこそ込められてある。もうそれは部屋の隅々にまで、お風呂を使わせて頂いて、もうそれこそタオルの一本の上に石鹸一つの置き方の上にまで、心が感じられる。
勿論お祭りの準備と言う事になると、それこそ用意おさおさ怠りなし。あちらの親族の方達が五六人で一生懸命お祭りの準備を、まだなさっておられる最中でしたが、もうそれこそ、生き生きとしてね、その御用をなさっておられる。だからね私はこの信心生活と言うか、またお道の信心のいわゆる実意丁寧神信心と言うのはそれなんだ。例えばお寿司屋さんですから、材料一つ揃えるに致しましても。
それを商品になって売られるに致しましても、ちょうどお客さんに喜んで頂く材料を、お客さんが喜んで下さる、美味しいお寿司を、一つ一つの中にそれはちょうどお宅祭りを仕える様な心づもりで奉仕する事なんです。今日は親先生がお見えるから、親先生に喜んで頂く事のためにと、例えばお絞り一つの出し方の上にでもお茶一服、含ませて頂く上に於いても、親先生の心に添うようにとこれなんですよ。
それをお客さんの方へいわば置き替えたら、そういうです例えて言うならば、お茶一服出させて頂いても、思いもなからなければ、籠っても居ない。ただ売らんかなただ儲かりさえすれば良い。十買う人よりも、二十買う人の方が大事といった様なです、ものではなくてもしあるとするならば、それは口で愛して心で憎んでおる様なものじゃないでしょうかね。心で憎んで口で愛している。成程お客様を憎む筈はありません。
憎む筈もありませんけれども、愛するというかね、ただ売らんかなのためのお茶であったり、お絞りであったりという事であったとしたならば、そういう事になるんですよ。心と形は成程形は如何にも、親切そうにしてあるけれども、まぁいうならデパート辺りで、あのショップガールの方達が、いらっしゃいませ有難うございますと言うとるのと同じ事ですよ。心からそれが出てるのではない、それが信心なのだ。
信心とはそれに心がこもる事なのだ。今日はお宅祭りである。お粗末ご無礼があってはならない、親先生に来て頂くのだ。親先生に喜んで頂く様に、喜んで頂くようにと言うそういう思いを、お客さんの上に置き換えるだけなんだ。そうおいう生活が信心生活なのだという風に聞いて頂いた。そういう例えば生き方がです一生続けられるとするか。そういう生き方ではない生き方が、一生続けられるとするか。
天地ほど違いが出来ることを感じるでしょう。私達のそういう生き方、成程ほんなら、そこんところが人間です。成程そういう生き方こそが、実意丁寧神信心させて頂く者の生き方であり、お道の信心を頂いて、お商売をさせて頂く者の心掛けである。例えば有難うございます一つでもです変わらんのですね、形の上に於いてはけれどもね、そこの心のところを、神様はご覧になっておる。
それを例えば実意丁寧を以って、言葉遣いひとつの上にでも、ちょっとした、動作一つの上にでもです、いわゆる、実意な心、実意な言葉、実意な態度。それが、私は、段々、本当なものになって行き、染み込んで行く。そういう生き方が身についてくる。ですから、そういう事ではない事になって参りますとですね。もう前には進んで行かれないのです。そこんところが有難い、信心とは。
信心する者は変人になれ。変人とは直ぐいことと仰る、すぐいこととはそういう生き方だ。だからすぐ行行き方ではない、真っ直ぐい生き方ではない。ゆがんだ生き方をしておると、もう心が咎めて来る。まぁ咎めて来るというよりも、その道が歩き難うなって来る。それでもやはり気が付かないでおると、神様が信心させて頂く者の上にはです、お気付けを下さる。神様ははっと思う様な間違っておった事を悟らせて下さる。
私は昨日、高橋さんところへ参りますのに、正義さんが車で一緒に参りました。茂さんも一緒に参りました。それでお茶一服頂いて、お手洗い行こうかと言うたら、んにゃもう、時間ですからもうお茶は頂きませんとこう言う。ほんならお茶頂かんなり行こうかち、言うちからそれをしたら、茂さんが先生昨日はどうも相すみませんち。昨日は随分お誕生日でございましたのに、本当にうっかりしてましたとこう言う訳で、何か小さい缶の、昨日のお誕生のプレゼントと言う事なんです。
実は先生今朝がたからお夢の中で、親先生に怒られましたち。もう私はそれを聞かせて頂いた時にね、そんくらいな事はあろうな茂さん。私と久保山先生の事を、思うてそう思いました。そら他の方ならいざ知らず、けれども私と久保山との場合はです、そんな訳にはいけない。何時もそれこそ誕生日といや、今まで大なり小なり、そうさせて頂いて来た。それを今年に限って言うならば、それをうっかりしているというか、疎かにしておったということをです。
久保山先生が、昨日は親先生の誕生日じゃなかったか、お前達なぁにもしとらんじゃないか、と言うてですね、叱ってまでそこを分からせようとなさるという所にです、信心のある者を感じましょうが。私共がちょっと間違えますとね、神様がお気付けを下さる。いや、それこそ御霊様が働いて下さる。そこで真を真として現わして行くことが出来れる道をです、いよいよ間違いなく歩かせて頂く事が出来る。
信心のある者の違いをそういうところにも感じます。私共が本気でです心で憎んで、口で愛すなよと。日頃は親先生親先生なしにはとか言うておって、誕生日を忘れる様な事、いや忘れはするまいけれども、その只今申します様な事をうっかりしておる様な事で、いわば、親先生のおかげでなどと言うとってもそれはいわば、今日のいわゆる心で憎んで、口で愛すなよといった様な事にもなってくると思うです。
口ではいつも親先生、親先生、親先生のおかげでと言う。だからこの事は、皆さん全部に言ってる訳ではないですよ。私と久保山の上だけの事なんです。それはそのようにして、久保山と私の方ではそこに繋がりがあるから、そうしておるのですから。皆さん方が私の誕生日だからと言って、必ずほんなら来年からプレゼントせんならんという意味じゃないから、どうか履き違えんごとしてください。
例えて言うと、本当な事をなさせて頂いておる事を、神様が喜んで下さるなら本当な事でない時になる時に、神様がお気付けを下さったり、本当な事をして行っておる事が、御霊様が喜んで下さるならでないと、御霊様が出てきておいお前は昨日は忘れておりはせんかと言うて、お気付けを下さる程しのです、事が出来るのは信心なのです。だから私共が直ぐい生き方、所謂心の守りを掛け続けておらなければならない。
その事がです心で憎んで口で愛す。例え心で憎むと言うて憎むと言うてです。もうあれが憎うて憎うてたまらんと言う様な事だけじゃないのです。口で言うておる事と行うておる事が例えば違う。それではいけないと言われる。だからそこの所をその事だけでもです、私共が心にかけ続ける。どこまでも実意丁寧な心であるならば、実意丁寧な言葉遣いも実意丁寧ないわば態度も自ずと、そこから生まれてこなければならない。
口で言うておる事が、お粗末な事を言っておるなと気が付いた時には、もう心の中に実意丁寧を欠いておる時だと言う様に、自分の心にその事を思い続けておる、頂き続けると言うこと。それが私はもう汚れる事のない、いうならば守りにもなると言う事です。信心する人は、常に守りを心にかけておれ。そういう例えば精進をさせて貰う。日常生活の上にもほんなら、一つのお商売をさせて頂くでも。
高橋さんが昨日お宅祭りに使われた様な心をです。日々の商売の上にも使うて行こう。それが信心させて頂く者の商売のあり方だと、ここに思いこませて頂いたらです、それが店全体にもそういう雰囲気を作って行くこと、それこそそこはもう言葉じゃないです。入った瞬間です、私が今日は良いお祭りが仕えられるなと言った様なものを、まぁいうなら以心伝心感じれれる様にです。
お客さんが何とはなしに、この店はいい感じの店だなぁまた来るなら、ここに来うといった様なものがさっともう出来て来る。そう繁盛の元が出来る。そういう生き方が信心させて頂く者の、言うなら商売のあり方だという風にです思い込まれる、いわば修練をなさるならばです。そういう精進をなさるならばです店は繁盛する事であろう、お徳を受けて行かれる事であろう。
そういう生き方。そすと今度はそれではない生き方。ただ儲け出しさえすりゃ良いと、商売が繁盛さえすれば良いと、あの手この手で、売らんかなのために安売りをする。売らんかなのために、お客様へのサービスを良くする。それでもやっぱり繁盛致しますよね。けれども、それは繁盛するだけの事。中に神様の喜びはない。神様のいうならご信用というものは付かない。人の信用は付いても神様のご信用は付かない。
神様のご信用が付くなら、人の信用も付いて行くだろう。そういう生き方ですから、最後の所には、天地ほどの違いになってくると言う訳である。昨日私こちらの御神前に出らせて頂いて、一番初めに頂いたのがね、果物のイチゴですね。それから今の季節を言うて下さるんであろうか、つくしがね生えておる。そのつくしがねこう歪んどる。そういう御心眼を頂いて、只今申します様な御理解を聞いて頂いた。
イチゴという事は一生という事であろうと思うた。一期の望み一期の願いと申しましょう。一生の願いという意味なんですよね。一生イチゴという事は一生と私は頂いた。だから、一生をですつくしは歪んでいる。いわゆる歪んだ生き方。間違った生き方一生を真っ直ぐい生き方。どの位に違ってくるか解らない。成程天地ほどの違いになってくるのである。ですからただ信心させて頂いておってです。
いわゆる常に守りを心にかけておれよと仰るように、信心させて頂いておる者の自覚もなからなければ、教えを心に頂き続けるという事もないという様な生き方。そういう精進の無い信心であるならば、これは私は非常に惜しい事であると同時に、程度の低い信心だと思いますね。ただ御利益だけおかげさ頂きゃ良かというならば。いわゆる只今申します様に心に手が要ることのない、守りを掛け続けるという事。
こう言う生き方が信心だと、自分で気付かせて頂いたらです。その直ぐい生き方を、何時も、生活の上に現わして行く生き方こそがです。いわゆるそれが一生続けられるところにです、一生がいわば有難いという事だけではなくてです。あの世にも持って行けこの世にも残しておけるといった様なお徳を受けて行く生き方。御霊様になられても御霊ながらに、その事の精進が、なし続けられて行くであろうという生き方。
その事を例えば心にかけないで、言うなら平気で自分が口で言うておる事と、行うておる事が違った生き方。それに心が一つも引っ掛かりもしない。それを当たり前のことの様にして行く生き方。これはですから心の使い方を直ぐくとか、または歪んだとかという風に申しますけれども。これは全て心だけの事ではないのです。自分の身体の使い方でも、やはり真っ直ぐい使い方歪んだ使い方。
不節制などする事は、もう歪んだ使い方ですよね。ですからいうなら全ての事に、そこが頂ける。今日はそこんところを心というところに絞って、お話させて頂きましたけどね。心で憎んでと仰るから憎むという事だけならです。そうは何時もかつも誰を彼を憎むという事はありませんけれども。けれども口で言うておる事と裏腹な事を、憎んでじゃなくてもです、いうなら口に真を語りつつ、心に真のなきことという様な事にもなってくるのです。いらっしゃいませ。
口にも如何にも真のごとあるけれども、心に真がなかったらいけない。今日は親先生が見えるから、親先生に喜んで頂く様に言いよると、心の中に思うその思いが、言葉になって現れて来る。隅々の例えばお掃除一つの上にも心がけてある。それを親先生とお客様とを置き換えたらそれで良いのだ。信心とはそれなんだ実意丁寧な生き方とは、そういう生き方なんだ。それがそういう心も使わずに、ただ形の上だけになされておるとするならばです、それは非常に空しいものになって来る。
実がないという事になって参りましてね。そういう意味でです、私は今日は心で憎んで、口で愛すなよと。信心とはそうだなと、自分で本当に思わせて頂いてそれを心にかけ続けるならば、それはもう心に守りを掛けておるのも同じことだと。そういう守りならば穢れることはない。信心させて頂く道に草を生やすこともない。そういう思いが、心にかけ続けられる限り。
そこに神様がその人の心の中に、宿り続けて下さる事も間違いがない。心に守りを掛け続けることが出来る。御神米様ば何時もここに頂いておるから、という様なものではないということが分かりますね。そして私共は、その様な生き方をさせて頂いておるとです。神様は喜んで下さる。信心が進んで行きよる、信心が無事に成長して行きよると喜んで下さる。それでもそこが生身。
ですから時々寝忘れたり間違ったりも、まぁ寝忘れという事は、間違えるという事。いうならば。そら人間ですからあります。けれどもそこには神様が何時もです、ほらほら間違いよらせんかと、例えば肩を叩くようにしてです。起こしても下さる、倒しもしても下さると言う、久保山と私の誕生日のその事で、聞いて頂きましたがね。それがどうでしょう。もうあげんしよったばってん、もう今年からせんごつなった。
もう来年もせん。そらなるほど、それの方が楽な事は楽なんです。けれどもそっから、ずうっと間違うて行く。そこのところを、御霊様は間違わしてはならんと、それこそ声を大きくしてからでも、これこれお前は間違うとらせんかと教えておって下さったという事になる訳なんです。信心のある者とない者は、成程親のある子と、ない子ほどの違いを感じますですね。
どうぞ。